日炭高松炭鉱の鉱区と炭層 |
日炭高松炭鉱(日本炭礦株式会社)が、昭和9年〜昭和46年に採炭した鉱区と炭層を
「水巻町誌」・「増補水巻町誌」・「日炭高松新聞」等から抜粋しました
興梠友兼・遠賀鉱業所(初代)所長の略歴等
日本炭礦(株)の各鉱業所の変遷 |
主な採炭鉱区 |
(出炭開始) |
遠賀鉱業所 |
(出炭開始) |
昭和32年 |
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昭和41年 |
昭和43年 |
昭和44年 |
昭和46年 |
主な炭層 |
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11. |
昭和09年07月 |
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第一鉱 |
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第一鉱業所 |
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2月-閉山 |
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DEFGH |
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9.11. |
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常盤坑 |
昭和31年03月 |
第一鉱業所 |
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2月-閉山 |
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BC |
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3.4.7.8.10. |
昭和11年07月 |
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第二鉱 |
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高松鉱業所 |
40年-中止 |
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EF |
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4.5.6. |
昭和17年03月 |
第三鉱 |
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高松鉱業所 |
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浅川鉱業所 |
5月-閉山 |
. |
ABC |
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2. |
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昭和21年05月 |
第四鉱 |
28年-閉山 |
. |
FG |
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1.2. |
第五鉱 |
昭和31年10月 |
大君鉱業所 |
37年-閉山 |
. |
FG | |||||||
5.6.12.13. |
二島鉱 |
昭和30年02月 |
二島鉱業所 |
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若松鉱業所 |
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3月-閉山 |
ABC |
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昭和9年〜30年代の日炭高松炭鉱では、主に遠賀層の下層部を採炭していましたが、40年代には上層部の採炭に移行し、昭和46年に全山が閉山しました |
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( ガス発生炉用炭・電力用炭の重油転換、エネルギー革命による産業界の石炭離れ、公害の社会問題化による硫黄分の含有増加等で閉山へ ) |
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*** 日炭高松炭鉱の前身である、明治〜大正期の三好炭鉱の各坑口では、上層の「臭石五尺層」「本石三尺層」を採炭していました *** |
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*** 大正14年に高松斜坑の開坑に着手し、大正15年12月に下層の「三ヘダ三尺層」・昭和2年7月に「四ヘダ五尺層」に着炭しました *** |
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下段右の炭柱図の参考深度は、本城にあった第五竪坑の建設掘削時の地質図を参考にしています |
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日炭高松炭鉱の鉱区図 |
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昭和32年頃の日炭高松炭鉱 (各坑口の斜坑と竪坑の配置図) |
昭和32年の炭層柱状図 |
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水巻町の地形と炭鉱 |
水巻町と北九州市の境界地区には、丘陵地帯(40m〜100m)が南北に続いていましたが、現在は多くが住宅団地にその姿を変えています |
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この丘陵地帯の麓では、明治初期から数多くの中小炭坑が操業を繰返して、芦屋〜水巻〜中間・香月〜直方・飯塚へと続く『筑豊炭田』の最北部に位置していました |
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明治39年〜昭和9年には、三好徳松が水巻町付近一帯の鉱区を買収して操業し、昭和9年〜46年には、日炭高松炭鉱(日本炭礦)が操業しました |
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日炭高松の一鉱ボタ山が片山に、二鉱ボタ山・三鉱ボタ山が浅川に聳えていました 整備後の低くなったボタ山跡が、現在も残っています |
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三好一族は、頃末小学校用地と校舎二棟や町役場用地等を水巻町に寄贈、神社への寄進、私立折尾高等女学校を設立しました |
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(三好一族と三好徳松・三好セキの墓は、折尾町丸尾に現存しています) |
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(三好関連・炭鉱一覧はこちらを参照下さい) |
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明治末期に曲川の船積場(字大西)付近から見た、三好炭坑と水巻町頃末地区 | ||
(左側の屋敷は、頃末1264番地の三好孝宗宅と思われる) | ||
背後の山は、左側-(字葛ヶ谷・東河原)--現在は二鉱ボタ山跡と、高尾工業団地に造成済 |
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中央-(字釜ヶ谷)--現在は高尾団地に造成済 右側-(字釜ヶ谷・櫛笥)--後の高尾浄水場と、頃末小学校の東山 | ||
手前の頃末ボタ捨場跡に、大正9年に国道3号開通、昭和8年に水巻町役場、戦後に水巻中学校や日炭社宅等が建設されます | ||
大正2年までは、貯炭場から船積場まで馬曳・後にエンドレス線(1440m)で運び、曲川・江川経由の『川ひらた』で送炭していましたが | ||
大正3年からは、釜ヶ谷坑(高尾礦)〜折尾駅の積込場にエンドレス線(864m)を設置して送炭しました | ||
大正14年から、折尾駅〜頃末間に専用鉄道の敷設を開始、昭和2年より運輸を開始しました | ||
(明治16年〜39年の頃末炭坑は、字東河原・釜ヶ谷・櫛笥に坑口があり、明治39年に三好徳松が買収) | ||
多賀山から見た、現在の字葛ヶ谷・東河原・釜ヶ谷・櫛笥地区---高尾団地・日吉台団地の造成で、丘陵部が姿を消しました | ||
手前の住宅地は、昭和9年〜46年には日炭高松の高松第二鉱・選炭場・専用鉄道等がありました | ||
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興梠友兼・遠賀鉱業所(初代)所長 |
(昭和44年-80歳) |
〔鶴崗---かくこう-(ホーカン)--国立公文書館の資料内にも、鶴岡炭鉱との(簡略?)表記あり〕 |
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鶴崗炭鉱---興山・東山・南崗・石頭 (露天掘)・陸鏡の5採炭所と、大嶺・興安の2開発所あり--石頭が鶴崗炭鉱の発祥の地 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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** 満州重工業開発の満州炭鉱(満炭)は、昭和18年2月に--阜新炭鉱・鶴崗炭鉱・西安炭鉱・北票炭鉱・満州炭鉱--に改組される | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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昭和15年の興梠友兼・所長と、鮎川義介・満州重工業開発(満業)・総裁--(S.16〜満州国経済顧問) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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昭和15年頃の遠賀鉱業所--二島斜坑・高松第三鉱を開坑し、各坑道を連結して二島での一括揚炭を計画する |
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(注意--上図中の「本石三尺層」と「三ヘダ三尺層」が上下逆になっている?) |
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日炭高松炭鉱の各坑口の変遷 (昭和9年〜昭和41年迄) |
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