中鶴炭鉱の歴史  (追加分-1)


『 中間市史 』 ・ 『 中間郷土史会・江副敏夫氏の資料

中鶴炭鉱の写真帖-昭和30年頃 』 等より

大正鉱業(株)・中鶴炭鉱の歴史-(明治39年〜昭和39年)-を抜粋しました

( 写真のサイズにより、ページの横幅を広げています )



大正・中鶴炭鉱の歴史



大正鉱業・中鶴炭鉱の各坑口の変遷  

年 度 

月 

中鶴炭鉱  

 新手炭鉱 

 新手第二炭鉱

 大根土炭鉱 

 垣生炭鉱 

第一埴生炭鉱

出炭量 

明治39年

01月

中鶴炭坑の開坑 

 

 

 

 

 

(千トン) 

明治41年 

11月 

↓ 

新手炭坑を買収 

 

 

 

 

58 

明治42年 

10月 

(赤煉瓦大煙突) 

新手炭礦(株)の設立 

 

 

 

 

79 

明治43年 

12月 

↓ 

↓ 

 

 

 

 

 

明治44年 

11月 

↓ 

↓ 

鳳凰炭坑を買収 

 

 

 

107 

〃 

 

(新坑の開坑) 

↓ 

新手第二炭坑と改称 

 

 

 

 

大正03年 

5/1 

大正鉱業(株)の設立--(中鶴坑・新手坑・新手二坑・泉水坑) 

 

 

 

 

大正05年 

 

(新坑に人車坑道) 

 

 

 

 

大正08年 

02月 

↓ 

↓ 

↓ 

大根土炭坑の開坑 

 

 

 

大正10年 

08月 

↓ 

↓ 

( 閉  鎖 ) 

(着炭する) 

 

 

226 

大正12年 

06月 

(運炭・引込線) 

↓ 

 

↓ 

 

 

 

大正15年 

05月 

(ボタ運搬ケーブル) 

↓ 

 

↓ 

 

 

423 

昭和02年 

09月 

中鶴一坑と改称 

中鶴三坑と改称 

 

中鶴二坑と改称 

 

 

463 

昭和05年 

09月 

↓ 

(小林鉱業に売却) 

 

↓ 

 

 

465 

昭和11年 

07月 

↓ 

 

 

↓ 

 

(宝珠山鉱業の設立) 

753 

昭和13年 

08月 

↓ 

 

 

↓ 

垣生炭坑を買収 

(↓) 

618 

〃 

 

↓ 

 

 

↓ 

中鶴垣生坑となる 

(↓) 

 

昭和15年 

07月 

↓ 

 

 

↓ 

↓ 

(日本炭業に売却) 

653 

昭和16年 

06月 

(大水害・水没) 

 

 

(大水害・水没)

↓ 

 

270 

〃 

10月 

↓ 

 

 

(新一坑・新二坑の開坑) 

↓ 

 

348 

 

 

↓ 

第三坑・東中鶴・新中鶴・上津役  

↓ 

↓ 

 

 

昭和18年 

12月 

↓ 

 

 

(本社を第二坑に移転) 

↓ 

 

368 

昭和19年 

04月 

↓ 

中鶴三坑の開坑

上津役炭坑を買収 

↓ 

↓ 

 

289 

〃 

 

↓ 

↓ 

↓ 

↓ 

↓ 

 

 

昭和20年 

08月 

↓ 

↓ 

( 閉 鎖 ) 

↓ 

↓ 

第一埴生炭坑を買収 

158 

〃 

 

↓ 

 

↓ 

↓ 

中鶴五坑と改称 

177 

昭和23年 

11月 

↓ 

↓ 

上津役炭礦の創業 

↓ 

↓ 

↓ 

242 

〃 

 

↓ 

↓ 

↓ 

↓ 

↓ 

 

昭和24年 

01月 

↓ 

↓ 

↓ 

↓ 

↓ 

( 閉 鎖 ) 

258 

昭和25年 

03月 

( 閉 鎖 ) 

↓ 

↓ 

中鶴本坑となる 

↓ 

 

288 

昭和26年 

06月 

 

↓ 

↓ 

(新一坑・カッペ採炭開始) 

( 閉 鎖 ) 

 

348 

昭和27年 

 

 

↓ 

↓ 

(新二坑・人車設備完成) 

 

 

372 

昭和29年 

05月 

 

( 閉 鎖 ) 

↓ 

↓ 

 

 

451 

〃 

06月 

 

東中鶴炭礦の創業」 

↓ 

↓ 

 

 

 

昭和32年 

11月 

 

浸水事故」 

↓ 

↓ 

 

 

508 

昭和33年 

11月 

 

↓ 

租鉱権満了で閉山 

↓ 

 

 

 

昭和35年 

02月 

 

租鉱権満了で閉山」 

 

↓ 

 

 

481 

〃 

03月 

 

新中鶴炭坑の開坑 

 

↓ 

 

 

 

〃 

 

 

↓ 

 

↓ 

 

 

 

昭和39年 

12/14 

 

( 閉 山 ) 

 

( 閉 山 ) 

 

 

 


中鶴炭鉱 

伊藤傳右衛門は、十七銀行の担保物件となっていた鉱区を買収、中鶴に竪坑を開坑する
明治42年に赤煉瓦作りの大煙突 (高さ35m・内径4m)を建設
大正6年に各坑に分配所 (配給所)を設置する
大正8年に付属病院や託児所を設置、昭和36年には新病院も建設される
本社所在地を、昭和18年に中鶴 (7492番地)から大根土 (6055番地)に移転、29年には中鶴跡地に再移転 

ボタ運搬ケーブル 

中鶴炭鉱のボタを、約1,500m離れた東側のボタ山 (現在の中間北中学校・敷地)まで
架空索道のバケットで運搬した---昭和10年頃まで稼動 

大正鉱業 (株) 

古河鉱業との共同出資で設立 (資本金三百萬円)、古河側が販売面を分担する
戦後の財閥解体で、伊藤一族による単独経営となる 

大正鉱業附属病院 

大正8年、中鶴一坑に附属病院を設立 (院長・陣内鉄一)
昭和初期--中鶴二坑に大根土分院を設置、戦後--上津役・垣生・下二に分院を設置
昭和36年--上蓮花寺に新病院を建設、40年--中間市立病院となる 

大水害・水没 

昭和16年6月25〜29日の大雨---隣接の第一埴生炭坑より坑内浸水し、中鶴・大根土炭鉱が出炭不能となる
中鶴炭鉱の存続再建を目指して排水作業と、大根土炭鉱に新一坑・新二坑を開坑する
15年には65万トンを出炭するが、16年は6割減の27万トンとなる 

大水害 

昭和16年6月27日---九州採炭・新手二坑 (旧・深坂炭坑)でも浸水事故が発生、23名死亡 

新手第二炭坑 

炭坑名の変遷---蓮花寺炭坑 (M.21開坑)⇒中間炭坑⇒鳳凰炭坑⇒新手第二炭坑 (M.44〜T.10閉鎖)
蓮花寺〜中間駅間に木造の高架桟橋を架設して、トロッコ (後はエンドレス)で送炭した 

上津役炭鉱 

昭和23年11月--租鉱権を設定し、上津役炭礦を創業する---日高兵吉

東中鶴炭鉱 

昭和29年6月--租鉱権を設定し、東中鶴炭礦を創業する---佐藤強
32年11月25日---坑内浸水事故が発生、18名死亡 

新中鶴炭鉱 

東中鶴炭鉱の租鉱権満了により、3月に新中鶴炭鉱の竪坑を開坑する
昭和35年に本坑より配置転換し、7月から採炭を開始する  

中鶴本坑? 

昭和23年8月の文書には、既に 「本坑・一坑 ・三坑・五坑・垣生坑」との記載が見られる 

昭和23年・在籍数 

職員-540+98、鉱員-4,260+565、臨時-119+51、合計-(男) 4,919人+(女) 714人=(計) 5,633人 

泉水坑 

明治35年--鞍手郡西川村の泉水炭坑を買収 ⇒昭和06年--木戸正三へ売却 

宝珠山鉱業 

明治45年--朝倉郡の土師・長者原炭坑を買収して宝珠山炭坑と改称 ⇒昭和15年--日本炭業・橋上鉱業へ売却 


 

******************************

中鶴第一坑 (旧・本坑)の写真

( M.39〜中鶴炭坑 ⇒ S.2〜中鶴第一坑 ⇒ S.25 閉鎖 )

 

 

大正3年頃---東側から見た中鶴炭鉱と大煙突、手前に堀川運河の積込場、後方に遠賀川 

(昭和15年5月--選炭場を焼失する) 

  

昭和23年の中鶴第一坑---一坑選炭場と、右上にはボタ運搬ケーブルの痕跡が見えている          昭和23年の中鶴第二坑---中牟田社宅は建設前で、宮林社宅は建設途中のように見えます

 

 

昭和30年頃の中間町---左に中鶴第一坑の跡地と社宅街、中に中間駅と豆炭工場、右に中鶴本坑と社宅街、右上に蓮花寺ボタ山 

 

 

         昭和28年の中間町図より---中鶴第一坑の跡地と社宅街・中間小学校、右に商店街と中間駅 (下に部分拡大図)                   昭和14年--北側の鉱員社宅街 (中鶴3区??)

                              社宅街は、南側に1区・2区、北側は3区のようです 

 

 

                    大正初期---明治44年に開坑された、中鶴新坑と思われる坑口??                                      新手第二炭坑(蓮花寺)の送炭用高架桟橋

                                                                        ( 後方は中鶴一坑のボタ山で、現在は中間北中学校の敷地 )

  

                 昭和14年---中鶴第一坑の選炭場と積込ポケット                                    昭和8年---中鶴記念館前の広場での盆踊り                       

 

  

                   昭和16年頃---中鶴第一坑の積込ポケット前附近 (石炭増産挺進隊)                                      選炭場の内部風景 

 

  

      昭和初期---中鶴第一坑⇔東側のボタ山 (現在の中間北中学校)へのボタ運搬用ケーブル                        大正8年に建設された、大正鉱業付属病院の玄関前 

 

  

                                昭和28年の中間町図より---左に遠賀川、中に第一坑跡の大煙突・付属病院・記念館・大山祇神社と社宅街、右に堀川運河            昭和14年---中鶴記念館

                                                                       南側の社宅街は、遠賀川沿いに鉱員社宅、堀川沿いは職員社宅のようです                           記念館前では映写会等も行われた

 

  

                     南東側から見た、鉱員社宅と記念館の屋根、大山祇神社と東側の階段                          昭和14年12月に建立された、大山祇神社内の慰霊碑 

 

  

昭和40年---南側から見た、中鶴第一坑の跡地と大煙突

第一坑跡地の住宅地への再開発は、昭和44年10月から開始され、跡地の北側には県営アパートが建っています

 

北側から見た---現在の中間市 

左下に中間北中学校 (元・中鶴第一坑のボタ山跡)、中に筑豊本線と中間駅、右下に中鶴の県営アパート 

                                               

****************************** 

 

中間市内にあった炭鉱

 

 






















 

炭鉱名 

各 炭 鉱 の 変 遷

高松炭鉱 

明治31年頃・開坑⇒⇒45年・三好徳松⇒⇒大正8年・三好鉱業・高松炭鉱
⇒⇒昭和09年・日本炭礦・高松第一鉱⇒⇒昭和41年に閉山 

岩瀬炭鉱 

明治23年頃・開坑⇒⇒岩瀬若江炭鉱⇒⇒大正11年・閉鎖 

蓮花寺炭鉱 

明治21年・開坑⇒⇒鳳凰炭坑⇒⇒新手第二炭坑⇒⇒大正10年・閉鎖

中鶴炭鉱 

明治39年・開坑⇒⇒昭和02年・中鶴第一坑⇒⇒昭和25年・閉鎖

大根土炭鉱 

大正08年・開坑⇒⇒昭和02年・中鶴第二坑⇒⇒昭和16年・新一坑・新二坑の開坑
⇒⇒昭和25年・中鶴本坑⇒⇒昭和39年に閉山
 

垣生炭鉱 

明治34年頃・開坑⇒⇒清美炭坑⇒⇒宮ノ前炭坑⇒⇒垣生炭坑
⇒⇒昭和13年・中鶴垣生坑⇒⇒昭和26年・閉鎖 

新手炭鉱 

明治16年・開坑⇒⇒明治41年・中鶴第三坑⇒⇒昭和05年・小林鉱業
⇒⇒昭和13年・九州採炭・新手本坑⇒⇒昭和29年・閉鎖 

扇浦炭鉱 

昭和16年・開坑⇒⇒九州採炭・新手五坑⇒⇒昭和39年に閉山 

深坂炭鉱 

昭和02年・開坑⇒⇒昭和15年・九州採炭・新手二坑⇒⇒昭和16年・大水害
⇒⇒名前坑・赤石坑・大底坑の開坑⇒⇒昭和35年・閉鎖 

岩崎炭鉱 

明治28年・池田炭坑・開坑⇒⇒岩崎炭坑⇒⇒木曽鉱業・岩崎炭坑
⇒⇒昭和13年・九州採炭・新手三坑⇒⇒昭和36年・閉鎖 

大隈炭鉱 

明治11年・開坑⇒⇒土手ノ内炭鉱⇒⇒大隈炭鉱
⇒⇒昭和09年・金丸鉱業・大隈炭鉱⇒⇒昭和37年に閉山

大辻炭鉱 

明治10年・大辻朝霧炭鉱・開坑⇒⇒大辻炭坑⇒⇒第一大辻炭鉱
⇒⇒貝島鉱業・大辻炭鉱⇒⇒大辻炭礦⇒⇒昭和43年に閉山 

九州採炭 

昭和10年3月、小林鉱業を設立⇒⇒12年9月、九州採炭に改称する
( 13年8月、藤井鉱業・藤井伊蔵が社長に、日満鉱業が筆頭株主となる )
新手本坑・二坑・三坑・五坑と、海老津・高陽・笹原炭坑を経営する

その他 

宮林炭坑、外扇炭坑、徳若炭坑、長津炭坑、坪内中間炭坑、第三白岩炭坑
唐戸炭坑、貴船炭坑、中間炭坑、黒川炭坑、名前炭坑、第三大辻中間炭坑、等

 

九州採炭・新手炭鉱の各坑口の変遷 

年度 

月 

新手本坑 

新手二坑 (深坂)

新手三坑 (岩崎) 

新手五坑 (扇浦) 

明治 16年 

 

三尺層炭坑の開坑--伊藤陶索 

 

 

 

明治 20年 

9月 

唐戸炭坑の開坑--許斐鷹介 

 

 

 

明治 25年 

9月 

第二新手炭坑と改称 

 

 

 

明治 28年 

 

↓ 

 

池田炭坑の開坑--岩崎久米吉 

 

明治 29年 

11月 

↓ 

 

岩崎炭坑に改称 

 

明治 41年 

11月 

新手炭坑と改称--伊藤傳右衛門 

 

↓ 

 

昭和 02年 

9月 

中鶴第三坑と改称 

深坂炭鉱の開坑--岩崎寿喜蔵 

↓ 

 

昭和 05年 

9月 

新手炭坑と改称--小林勇平 

↓ 

↓ 

 

昭和 10年 

3月 

小林鉱業(株)を設立 

↓ 

↓ 

 

昭和 12年 

9月 

九州採炭(株)に改称 

↓ 

↓ 

 

昭和 13年 

10月 

↓ 

↓ 

九州採炭--岩崎炭坑を買収 

 

昭和 15年 

5月 

↓ 

九州採炭--深坂炭坑を買収 

↓ 

 

昭和 16年 

3月 

九州採炭・新手本坑と改称 

九州採炭・新手二坑と改称 

九州採炭・新手三坑と改称 

九州採炭--扇浦坑の開坑 

昭和 17年 

2月 

↓ 

↓ 

↓ 

九州採炭・新手五坑と改称 

昭和 20年 

12月 

↓ 

(名前坑の開坑) 

↓ 

↓ 

昭和 24年 

10月 

↓ 

(赤石坑の開坑) 

↓ 

↓ 

昭和 28年 

11月 

↓ 

(大底坑の開坑) 

↓ 

↓ 

昭和 29年 

4月 

( 閉 鎖 ) 

(中央選炭場の完成) 

↓ 

(本事務所の移転) 

昭和 35年 

5月 

 

( 閉 鎖 ) 

↓ 

↓ 

昭和 36年 

7月 

 

 

 ( 閉 鎖 )

↓ 

〃 

9/4 

 

 

 

( 閉 山 ) 

〃 

10/22 

 

 

 

操業の再開 

昭和 39年 

1/30 

 

 

 

( 閉 山 ) 

           

* 海老津炭鉱---大正02年頃・堀鉱業⇒09年・海老津炭礦⇒昭和09年・金丸鉱業⇒13年・海老津礦業⇒19年3月・九州採炭⇒31年12月・閉山        

 * 高陽炭坑---大正06年・開坑⇒昭和13年・福岡鉱業⇒19年3月・九州採炭⇒32年8月・閉山

 

 

 昭和36年--九州採炭・新手二坑 (深坂)--左端に新手中央選炭場・香月線積込場と新手ボタ山、右には椋枝ボタ山と右端中央に新大辻坑

( 新手ボタ山は20年代には北東向きで、30年代には南東向きに変化している ) ( □--約半数の炭住が現在も残っています )

 

               昭和36年--九州採炭・新手三坑 (岩崎)--南側に大隈炭鉱と運炭線                   昭和36年--九州採炭・新手五坑 (扇浦)--石炭は新手運炭軌道で新手中央選炭場に送る 

                         ( □--約半数の炭住が現在も残っています )

 

昭和33年頃--九州採炭・中央病院                             昭和30年頃--九州採炭・事務所 (扇浦) 

(九州採炭・中央病院---昭和16年に発足、18年に病院・病室の増築、二坑・三坑・五坑に診療所を設置、24年頃に病院・病室の増改築、病床数30床) 

  

                                大正10年頃---大正鉱業・新手炭鉱                                 昭和29年に完成した、九州採炭・新手中央選炭場と香月線・積込場

 

  

                  昭和28年に開坑した、九州採炭・新手二坑の大底坑附近                               九州採炭・新手三坑の人車坑道風景

 

 

昭和20〜30年頃---日炭高松炭鉱・第一鉱の吉田ボタ山と片山区社宅街 

 

  

明治29年---岩崎炭鉱・第一坑                                   明治31年---岩崎炭鉱・第二坑

 

  

                                              明治時代の土手ノ内炭鉱                                          大正時代の大隈炭鉱

******************************

香月線と大辻炭鉱の遺構」 「大辻炭鉱・岩崎炭鉱の遺構」 「大辻炭鉱と香月町 」 「日炭高松-中鶴炭鉱-大辻炭鉱」 

明治39年-遠賀郡の炭鉱」 大辻炭鉱の歴史-追加分」 「中鶴炭鉱の歴史-追加分-2」 「中鶴炭鉱の歴史-追加分-3」 「東中鶴鉱・新中鶴鉱の遺構



昭和30年代の日炭高松炭鉱

第一鉱 

第二鉱・大君鉱 

第三鉱

二島鉱 

日炭高松炭鉱の記憶 


更新日--'07/12/22



 

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