洞海-くきのうみ-二子島

( 貝原益軒--『筑前国続風土記 』-巻十五-遠賀郡下-より )

洞海- くきのうみ -は、現在の洞海湾と思っていましたが、貝原益軒の『筑前国続風土記』では洞海湾の西側にあったようです
 日炭・二島鉱の選炭場の南に二子島がありましたが、昭和32年にはその姿を消してしまいました

( 中村学園大学図書館・貝原益軒アーカイブより一部抜粋 )



貝原益軒(1630-1714)は、元福岡藩士で本草学者・儒学者です、『養生訓』『和俗童子訓』『大和本草』『筑前国続風土記』等を著しています 

 

「大 渡 川--おおわたりがわ--
若松の入海の口、若松と鳥旗(戸畑)との間なり。 遠賀川の水、蘆屋(芦屋)の東三頭(三ッ頭)と云所より、西の方蘆屋(芦屋)に流れ、又
三頭(三ッ頭)より東へもわかれて、若松へながれ出る事川の如くなれば、大渡川と云う。
古今六帖 貫之 つくしなる大わたり川おほかたは 我ひとりのみわたる浮世か
この川は神功皇后の御船の通りし所なり。
此川若松より海士住(蜑住-あまずみ-)の間は、其わたり所により、少廣狭あれども、凡十五町廿町許あり。
其水上の遠賀川は、其廣き事淀川、千年川(筑後川)、其余の大河に及ばずといへども、此川は入海にて、鹹淡相まじりぬれば、其廣き事かくのごとし。 
是天下第一の大河にも勝るべし。 若松より海士住(蜑住)の間、すべて大渡川なるべし。

「島 郷--しまごう--
是より以下島郷の事をしるす。 此島は遠賀の北に在て、其間に洞の海をへだつ。
山鹿より若松まで長五里、横一里、村数十五、田畑高七千石あり。 若松より海士住(蜑住)までの間、入海の南北のわたり半里許あり。
此海は遠賀川の末にて、淡鹹まじれり。 故に是ほどの廣川他国にはなし。 依之大渡り川と云。 名所也。
又海士住(蜑住)より麓までの間は、海のわたり甚せばし。 尤せばき所は四五間許あり。 かくの如くせばき海は、他方にてはいまだ見ざる所なり。
同じく海につづきぬれど、大わたり川と名付し所は、大に廣く、洞の海と名づけし所は、きはめてせばし。 此二事は常に異なりと云うべし。
島郷と名付しは、内には入海とほり、外には大海をうけて、めぐりは皆海なる故に島郷と云。
山鹿より若松まで、すべて五里なり。 長き島なり。
 

「洞 海--くきのうみ--
若松より蘆屋(芦屋)に至るまでの間入海あり。 若松より海士住(蜑住)までは、海の南北廣き事半里許あり。
海士住(蜑住)より浅川の西までは、山間にて海のわたり甚せばし。 狭き所は六七間、尤狭き所は四五間あり。 大舟は通らず。 是を洞海と云。
凡くきとは狭き所に水の通ずるを云。 水茎の岡の湊と云も此意なり。
 

「二 子 島--ふたごじま--
二島村にあり。 黒崎の向ひに小島二あり。 其故に村の名をも二島と云。
二島各周九十間許ありて、其四方の峯嶮くして登り難し。 矢箟竹多し。 大なる蛇あり。

伊能忠敬の測量日記』より抜粋--(1812年の第二次九州測量時) 

文化九年七月二十二日  嶋ノ郷 二嶋村、二子嶋へ渡る
大島 渡巾五十一間--(約92m)、一周 二町十三間二尺--(約240m)
小島 渡巾大島より二十一間--(約38m)、一周 一町三十六間五尺--(約174m)


現在の海水面とは約5メートル程違っています、古遠賀湾は直方駅付近まで広がっていたようです。 古遠賀湾の一帯は、記紀や古代史研究者の間では注目地域となっています。  
折尾付近は入江で、則松から三ヶ森付近も入江のようです。 かつての若松半島は九州北部に隣接した島で、現在ではその海峡の跡が江川として残っています。
貝原益軒は、(江川の西半分) 三ッ頭〜蜑住間を 洞海-くきのうみ-、(江川の東半分と洞海湾) 蜑住〜二島〜若松間を 大渡川と区別しています。

昭和23年の江川---川沿いのグレー部分はかつての入海の跡で、蜑住から東には干拓地が広がっています )
江川は、測量日記では塩入川(汐入川)となっています。

西海道風土記逸文新考』--(井上通泰著・1935・巧人社)より抜粋 

昔は遠賀川の河口に通ふ細く長き海峽ありしに、世と共に埋もれ行きて、今は江川といふ溝渠の如きものとなりて
縣道の南に沿ひ處々に橋さへ渡したれば、土人もそが海峽なる事を知らざるものあり。
其西端は山鹿にて、東端は今は二島《フタジマ》なれど、近古までは蜑住《アマズミ》なりきといふ。
即内海、蜑住まで湾入してここより狹くなりたりきといふ。
古語のクキは今のヌケアナなれば、(岫門)クキトといふ名は此海峽より起りて、今いふクキノ海竝に其東北口なる所謂大渡川に及びしならむ。 

 

 

 

明治20年--干拓地と二子島                                      大正8年--埋立地と二子島
江戸時代には、洞海湾の西部の本城村や熊手村の沖合が干拓されて、福岡(黒田)藩の新田開発が行われました。 干拓地は、御開・新田・新地と呼ばれています。
明治30年に貝島・安川・麻生の共同で、洞海北湾埋浚合資会社が設立されて (⇒明治35年-若松築港株式会社に合併)、大正10年には藤ノ木二島地先埋立工事 (279,329坪)が竣工しました。
二子島の本島 (測量日記では大島)には、両児島大明神が天保4年(1834)頃には既にあったようです。

 

  

昭和23年--日炭二島鉱                                               昭和25年--日炭二島鉱
二子島は、大正8年頃には埋立工事で陸続きとなっています。
昭和11年頃に日本鉱業が、二島沖の埋立地を貝島鉱業より買収して、日本炭礦と日本化学工業⇒日産化学工業に移譲されます。
( 日炭高松・二島鉱---昭和15年に開坑開始〜中断〜昭和23年に開坑再開〜昭和30年2月より出炭開始 )
( 化学工場---昭和13年-日産化学工業・若松工場⇒昭和14年-日産液体燃料・若松工場⇒昭和23年-第一化学工業に改称 )
右上の二島道岸-どうぎし-社宅は、日本産業グループの社宅街のようです。

 

 

昭和31年8月--日炭二島鉱の選炭場と二子島 (本島と沖島)
日炭二島鉱の事務所 (埋立前の岬)から二子島の距離---(本島)大島への渡巾は五十一間--(約92m)、(沖島)小島への渡巾は大島より二十一間--(約38m)のようです---(測量日記↑)
上の二子島は、翌32年には貯炭場の拡大により、その姿を消してしまいました。 二島貯炭場の面積---使用中-25万平方メートル、整地中-12万平方メートル、ボタ埋立予定地-123万平方メートル
小さな無人島でしたが、二子島・二児島・両児島・本島と沖島・大島と小島等の多くの島名をもっていました。

 

 

昭和28年頃--洞海湾の埋立予定図
海岸線---細線は明治18年までに干拓済の海岸線、太線は昭和30年までの埋立完了地、点線は埋立の予定地。
かつては南北間の幅が約2km位もあった洞海湾は、江戸時代の新田干拓や明治以降の工業用地埋立で、今では航路幅110〜300m細長い湾となっています。

 

皿倉山から見た--2004年の洞海湾 

左に黒崎駅と堀川・江川の河口部、中に八幡駅、右にスペースワールドと若戸大橋
洞海湾の航路図を見ると、二島沖と黒崎沖の堤防の間隔は、わずか300m位の幅しかないようです (リンク先の洞海湾マップは、pdfファイルです) 

 

  

東二島の日吉神社の境内西側に、以前は二子島にあった--「両児嶌大明神」--が移設され安置されています。 祠の西側には、猿田彦大神や塩土老翁等の石碑もあります。  
二基の石灯篭には、天保4年(1834)と9年が刻まれています。 鳥居の建立年と祠の再建年は、摩耗していて判読ができません。

二嶋村--「両児嶋神社」--二子嶋ニアリ、祭神・伊奘冉命・市杵島姫命・神功皇后、モト許斐社、或乞水社ト称セリ---『福岡県地理全誌』 

伊奘冉命・市杵島姫命は、大字二島下り松--「両兒島神社」--にて奉斎しありしを、大正7年6月17日許可を得て本社(日吉神社)に合祀す---『福岡県神社誌』

二児島明神」--小祠あり、石扉の銘に嘉永4年(1851)再建、発頭願主・吉武源九郎、大宮司・伊高阿波守藤原朝臣繁雄と彫刻あり---『若松市史』 

小さな祠ですが、上記4件の神社名が見つかりました。 郷土史料類では、両児嶋神社が多数派のようです。
伊能忠敬の測量日記には、祠についての記載がありません。
鳥居の右側面には、再建と従五位下大宮司藤原朝臣繁雄が僅かに読めるので、小祠と同じ嘉永4年(1851)と思われます。     

 

 

日吉神社の北東側に、神功皇后所縁の「紅影の池」が残っていますが・・・・説明板や石碑は、初夏の旺盛な植物軍団に侵略・占領されています。 

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魚鳥池と魚鳥池神社 


洞海-くきのうみ-の初出は、養老四年(720)に成立した日本書紀になります
神功皇后所縁の魚鳥池と魚鳥池神社が、蜑住の日炭・第六竪坑跡近くの払川に残っています


日 本 書 紀 』 -卷第八- 《仲哀天皇八年(己卯一九九)正月壬午(四)》 

皇后別船自洞海〈洞。此云久岐。〉入之。潮涸不得進。時熊鰐更還之。自洞奉迎皇后。
則見御船不進。惶懼之。忽作魚沼鳥池。悉聚魚鳥。皇后看是魚鳥之遊而忿心稍解。及潮滿即泊于崗津。
 

皇后の船は、洞海(くきのうみ)より入った。潮(しお)涸(か)れて進むを得ず。
時に熊鰐再び還(かえ)して、洞(くき)より皇后を迎え奉(たてまつ)る。
御船進まざるを見てお怒りを恐れ、直ぐに魚沼鳥池を作ってことごとく魚や鳥を集めた。
皇后はこの魚や鳥の遊ぶを見て、お怒りの心をやや解かれた。 潮が満ちてきたので、(進み得て)崗津に到着された。 


 

昭和25年--魚鳥池の周辺
蜑住村の東側一帯は、貞亨年間(1684〜1688)に干拓されて新田となり、新村は祓川村⇒拂川村⇒払川村となりました

「海 士 住--あまずみ--
竹並海士住の前なる斥(潟)に、元禄元年(1688年・貞享5年)新田多く出来たり。 竹並の前に新村出来柳川と云う。 海士住に属す。
それより小島といふ所まで十数町の間堤をつき、(其長八百廿間あり)、其所を新田とす。 水門二あり。
むかひの枕崎の土石を用て堤を築けり。 (新田凡五十餘町有) 

柳川とは、干満の差を利用して魚を捕る為に簗-やな-を仕掛けた川と考えられます。 「祓う・拂う・払う・掃う」は、厄を祓う・塵を掃う等の「取り除く」という意味です。  
簗の川を (干拓して)取り除いて新田が作られ、新村は柳川村⇒祓川村⇒拂川村⇒払川村と変化したと考えられます。

 

 『 筑 前 名 所 図 会 』 -巻七- (奥村玉蘭・文政4年・1821)

皇 后 渕
海士住と庄の江との間にあり、後世に祓川村の田の中に井を穿ちて、石の井筒に銘す
是も好事の者の所為にや 

( 九州大学・デジタルアーカイブスより引用 ) 

古文書や写本等には読めない文字が多いので、今までは敬遠をしていましたが・・・・
洞海関連で色々と探してみると、現代の解説書よりも面白く参考になります。
表意文字の多い国語教育を受けた石頭には、記紀等の万葉仮名は良い頭の体操になります。

貝原益軒や奥村玉蘭は、記紀の舞台は九州筑紫と考えていたようです。
北九州で生れ育った者には、見慣れ聞き慣れた地名ばかりです。
各天皇が命名・改名した土地名を逆に辿っていくと、全てが九州筑紫に辿り着きます。

筑前国続風土記には、海士住の項に柳川とあり、洞海の項には祓川村とあります。
先ずは柳川村と呼ばれ、干拓地の拡張で祓川村となったようです。

約百年後の筑前名所図会では祓川村となっています。

は、皇后とイメージされ、鶴亀・雉・鴛鴦・燕?・鯛?が描かれています。
神功皇后の御輿掛けの松の近くでしょうか。
磯の淵には鯛?が泳ぎ、浅瀬には鶴と鴛鴦 (海鳥か???)
島?には松竹梅、≪春正月己卯朔壬午≫に燕?
貞享の干拓の後に、「田の中に井を穿ちて」、魚鳥池ができたようです。
「世中は何か常なる洞の海(あすか川) 昨日のふちぞ今日は田(瀬)になる--農水之大臣戯歌」
庄ノ江を今の汐分橋付近とすると、皇后渕とは小島の西側の狭い部分かもしれない。

 

遠 賀 郡 誌 』 -下- (大正6年・昭和37年復刻版)より抜粋

蜑住区の前の(潟)斥地に新田を開き、柳川と云所に人家を立て、それより小島まで十数町の間堤を築きて・・・・

魚 鳥 池
払川区の南一町余、田間にあり、・・・(仲哀天皇記・中略)・・・、此所、昔の潮の入口なり
貞享年中(1684-1688)、池倒(イケタオシ)と云う所に新田を開きしに、泉水湧出たり、極て清冽なり、水の深さ僅かに三四尺許と雖とも
旱年に聊涸るゝ事なし、村民是を汲て飲水とす、又此水を以て酒を醸すに、味甚義なり、郡中第一と称す・・・・
寛延三年(1750)庚午、村民太田二作、石を以て三尺四面の井幹を構へし・・・・「井泉の記」あり、寛延二年青山敏文選、太田が家に蔵す
元治元年(1864)吉木村の農、三輪佐一朗大庄屋となり、此村に居住するに及び、方二間半 深一丈の石畳、周囲七八間の石柵を構へ、魚鳥池と銘せり  

鵜 ノ 巣 石
払川区の西一町余松ノ下と云所の田間にあり、神功皇后の御船進まざりし所と云伝う
石は東西十五間、南北十二間餘の平磐にして、今の海面を隔る事、凡二百間餘なり、竹並区魚鳥池神社、もと此所にあり、今も小石祠を存す 

皇 后 淵
蜑住区の南四町余、小敷区との界川中に岩の差出たる所なり、古へ神功皇后の御船を止め玉ひし所と云、今淵は沙土に埋れてなし 

島郷村 江川・・・・蜑住区字庄ノ江にて潮水東西より来会す、此川古の洞海の遺跡なり 

『筑前国続風土記附録』によると---「村民太田某、石の井幹・亘四尺四方を構えて、魚鳥池泉の文字を彫れり」---となっています
『筑前名所図会』の「石の井筒に銘す」は、こちら『風土記附録』の井幹のようです

 

続風土記には、『村老語れり。魚沼鳥池を作りし所も、此山の下今の新村の邊ならん。此所は昔潮の入口なり。貞享年中に、此地新田となりしに、其所に清泉出づ。
今新村祓川村の民、此水を以、酒を醸すに味甚よし。郡中第一と稱す。』とあり、井戸は干拓後のようです・・・・
漁師の住んでいる海士住村の傍に作られた魚沼鳥池とは、磯の潮溜まりを利用した魚貝類の生簀であると想像しますがどうでしょうか。
その周辺にはサギやウミウ等の鳥が集まり、生簀の魚貝類を狙っていたと思われますがどうでしょうか。
現在でも鷺田や鴨生田の地名が残り、南の本城には鵜巣池があります。 二島の字地名には、簀潟と東簀潟がありました。
 

 

魚鳥池の横には民家が建ち、以前の田圃に囲まれた雰囲気が無くなり残念です。 北側には、洞北中学校と頓田貯水池の堰堤が見えています。
某古代史サイトでは、この頓田貯水池を魚沼鳥池として紹介していますが・・・・『忽作魚沼鳥池としては、大きすぎますね。
記紀の舞台を筑前・筑後・豊前とした、地名に主眼をおいた合理的な解釈ですが・・・・西湖と比較した魚鳥池の部分は、 サイトの唯一の欠点ですね残念です。
頓田貯水池は、丘陵の谷間を土堰堤で仕切って造られたアースダムです。 昭和27年(1952)に第一貯水池が完成、第二貯水池の造成を経て、昭和43年(1968)に現在の姿が完成しました。
魚鳥池の現在の石材は、(1,000x400x150mm)が4枚使用され、外径(1,000x1,000)・内径(700x700)、上蓋の幅400+300x2枚となっています。 

 

 

 魚鳥池の西、魚鳥池神社の南の田圃の中に、明治35年4月に建立された魚鳥池之碑 (磐石の碑)があります。
魚鳥池之碑は、東の魚鳥池を向いています。 背後の西側には貞亨元禄の干拓地が広がり、日炭・第六竪坑のあった蜑住の丘陵が続いています。
魚鳥池之碑は、遠賀郡誌の「払川の西約100m程、(御輿掛けの松) 松ノ下と云所鵜ノ巣石のあった所」に、建てらているようです。
現在の魚鳥池とは唯の泉水の井戸跡であり、熊鰐の魚沼鳥池とはこの辺りかもしれません。
筑前国続風土記にも皇后淵の項があり、神功皇后は二箇所で (魚沼鳥池と皇后淵で) 魚や鳥を眺めたのでしょうか。
皇后渕とは、貞亨元禄の干拓後にできた江戸時代当時の景勝地かもしれません。

 

魚鳥池神社は、いつの頃か鵜巣石から現在地に移されたようです。 現在地の山上には、「神功皇后の御輿掛けの松があった処」と言い伝えられています。
最初は鵜巣石の傍にあったようです。 続風土記には、『新村の邊 新田の内 七反田と云所 に鵜巣《ウノス》と云岩の背あり』とあります。 

 

 

魚鳥池神社 (無格社)--神殿・入三間・横一間二尺、渡殿・一間四面、中殿・入一間半・横二間、拝殿・二間五尺四面、石鳥居・高一丈二尺・廻三尺八寸、社地・六十六坪---『遠賀郡誌』 

魚鳥池神社--大木殿原(沖殿原)、祭神・市杵嶋姫命、イツノ頃カ、拂川村鵜ノ巣ヨリ此ニ移シ、魚鳥池神社ト称ス、此所ニ御輿掛松アリ---『福岡県地理全誌』 

市杵嶌神社--拂川村・鵜ノ巣---『福岡県地理全誌』 

現在の魚鳥池神社は、昭和52年7〜9月に修復されたようです。 石碑等には、大正6年・昭和19年・平成19年等の修復も記されています。

  

 

魚鳥池神社の社殿の前には、安政4年(1857)に建立された狛犬が残っています。 

 

 

魚鳥池神社の社殿の東側に4基、西側には3基の古い石の祠が祀られています。 特に古い東側の4基の石祠は、現在地に移される以前の神社の原形と思われます。
魚鳥池神社の南東傍に観音堂があり、『若松市史』では「島郷四国八十八ヶ所--27番・払川高見山・本尊十一面観音」となっています。 

 

魚鳥池之碑 (磐石の碑)が建っている鵜ノ巣石のあった跡地には、魚鳥池神社に移動された古い祠の礎石4個がまだ残っているようです。 

 

 

蜑住から江川沿いの道を更に西に進むと、小敷・太閤橋の先の江川南岸に太閤水の井戸跡が残っています。

 

 

 豊臣秀吉は、文禄元年(1592)朝鮮出兵のため肥前名護屋に出陣する時、大阪から肥前までの要所要所に太閤塚や給水所を設置し道路を整備しました。

 

 

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更新日--2008/07/01

(2010/09/19)



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