昭和17年の高松炭鉱

( 写真-法政大学・大原社会問題研究所・所蔵 )

日産化学工業(株)〜日本鉱業(株)・遠賀鉱業所高松炭鉱時代の訓練所写真

( 法政大学・大原社会問題研究所・大原デジタルミュージアム・社会労働関係写真データベースより )


会社名の変遷---(S.9-7)日本炭礦(株)(S.12-2)日本化学工業(株)(S.12-12)日産化学工業(株)(S.18-4)日本鉱業(株)(S.20-7)日本炭礦(株)




 

「朝鮮人労働者の集団移入および徴用について」
日本炭鉱労働組合10年史編纂委員会編の『参考資料』は次のように述べている 
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朝鮮人労働者の集団移入は、まず炭鉱鉱山部門で1939年(S.14)以来行なわれていたが
時期によって募集、官斡旋、徴用にわけられる
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 昭和14〜16年には、各社は募集員を現地に派遣して直接募集を行ったが
昭和17年以降は、朝鮮総督府内に設けられた朝鮮労務協会(1941年6月設立)が主体となっての
官あっせん募集に移行された
 だが相次ぐ集団移入のために朝鮮における労力給源も涸れてしまい
割当数に対して7〜8割しか確保できない有様だったので
さらに昭和19年9月朝鮮人に対しても徴用制が実施されるに至った
同時に従来は南鮮に限られていた募集地域が、このときから北鮮に拡大された

「募集」(1939年9月〜42年1月)の時期---「朝鮮人労働者募集要項」
「官斡旋」(1942年2月〜44年8月)の時期---「鮮人内地移住斡旋要綱」
「徴用」(1944年9月〜45年5月)の時期---「国民徴用令」の朝鮮での適用
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1938年の「国家総動員法」に基づき、1939年から「労務動員計画」が実施される
「徴兵」・「徴用」・「勤労奉仕」・「挺身隊」等

林えいだい著-『まっくら・・朝鮮人強制労働の実態・・1987』-によると
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1940年12月、沈さんは(日炭)高松炭鉱所の第2古賀訓練所に入所した
朝鮮人には3ヶ月間の訓練期間が設けられ、到着してから3ヶ月間、坑内作業を中心として
炭鉱の仕組みや作業道具、坑内道具、坑内用語等について教育した

徹底して皇国臣民化教育がなされた
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1943年11月7日、食糧不足で(日炭)高松炭鉱第一坑の片山第3訓練所でストライキが起こった
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契約期間の延長をめぐって、どの訓練所でもトラブルが起きた
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8・15の解放によって、日炭高松炭鉱では捕虜1,062人、勤労報国隊1,500人
朝鮮人3,500人が一度に職場を離れた

『増補・水巻町誌』-(水巻町誌編纂委員会/2001)-によると
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昭和14年(1939)12月に---初めての朝鮮人労働者70名の集団移入がある
1鉱に5箇所、2鉱に5箇所、3鉱に3箇所の訓練所(寮)を設置
昭和18年(1943)には---1鉱の鉱員4千人の内訳は、日本人3千人と朝鮮人1千人
高松炭鉱の全鉱員8千人の内訳は、日本人5千人と朝鮮人3千人
( 移入人員7,689人の内、60%が逃亡し、約3,000人が就労 ) 

『遠賀中間医師会史-S.44-』より-『日炭中央病院の歩み--院長・土井滋』-によると
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さて昭和十年頃から終戦迄は我国は日華事変につぐ太平洋戦争で医師は相次いで応召し
当病院でも前記諸氏の着任にも拘らず医師不足、物資不足の状況が続き非常に苦しい時代が続いたのである
昭和十三年から十四年頃には当炭鉱にも朝鮮人労務者が沢山入山していたので、病院でも
朝鮮人医師桂範淳氏及ぴ朝鮮人看護婦数名が勤務していたこともある

 『筑豊石炭鉱業史年表-S.48-』-によると
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大正6年(1917)6月---鉱員不足により、三菱上山田で朝鮮人労働者の募集を開始する
昭和3年(1928)7月---筑豊地方(調査分) 59炭坑の労働者数--63,646人の内、朝鮮出身者は--約9%の5,629人
昭和3年(1928)---主要炭坑の朝鮮人稼動者数(坑内+坑外)---鯰田-1,494人+244人、飯塚-1,687人+81人、方城-392人+21人
綱分-110人+16人、上山田-218人+121人、大君-55人+2人
新目尾-115人+20人、大之浦-58人+154人、新入-873人+71人、木屋瀬-79人+3人
昭和14年(1939)10月---朝鮮人労働者の集団移入が始まる---三菱鯰田-50人、三菱上山田-43人、三菱飯塚-96人、貝島大之浦-274人
貝島大辻-233人、大正-87人、明治赤池-100人、明治-93人、麻生赤坂-93人
麻生綱分-44人、麻生吉隈-124人、麻生山内-32人、古河目尾-98人、住友忠隈-99人
昭和15年(1940)---朝鮮人労働者の稼動率---日産高松-60%、麻生綱分-75%、古河目尾-84%、九曹西川本坑-92%
昭和18年(1943)---九州の炭坑労働者数-240,323人---一般-152,230人、短期 (勤労報国隊・挺身隊等)-15,111人
朝鮮人-70,068人、俘虜-2,373人、中国人-541人
昭和19年(1944)10月---華北労工協会の斡旋による中国人労働者の入山---大之浦-298人、大辻-200人
昭和19年(1944)10月---三菱飯塚の朝鮮人労働者は、全坑員の38%・約1,700人に達する
昭和20年(1945)7月---貝島大辻の労働者数は、日本人525人・朝鮮人132人・中国人183人
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昭和20年(1945)11月---貝島の中国人労働者-441人帰還する
昭和20年(1945)12月---貝島の朝鮮人労働者-3,182人引揚げが終る

参考資料---「跡部義夫遺稿
佐井洋一・跡部義夫著--「『異郷の炭鉱 : 三井山野鉱強制労働の記録』を読んで : 嘘や捏造、誤聞、伝聞を排す」

「韓国併合条約」の歴史的事象や、日韓の諸問題等については、専門外につき一切関知しない
当サイトでは、昭和17〜20年の訓練所関連の写真を紹介するのみです 
訓練所は戦後に解体されたり、独身者寮等に転用されたようですが、場所の特定はできていない
 

 

 

昭和17年の募集活動

 

 

  

昭和17年---朝鮮に於ける労働者募集-1942年-朝鮮京畿道の募集会場、日産化学工業(日炭)募集会場と募集員

看板は--「日産化学工業会社・遠賀鉱業所・募集労務員集合場」と読める

 

 

昭和17年---朝鮮に於ける労働者募集-1942年-朝鮮京畿道、面(村)役所での募集手続に集まった朝鮮人  昭和17年---面(村)役所前、面長と募集係の説明

 
 

高松炭鉱・第一鉱の訓練所

 

 

    

昭和18年---高松炭鉱・第一鉱の片山第一訓練所--「忠南道保寮郷出身者一周年記念-1943.11」

 

 

昭和19年---高松炭鉱・第一鉱の片山訓練所-1944年 

 

  

昭和18年---高松炭鉱・第一鉱の鯉口訓練所??と思われる 

 

 

高松炭鉱・第二鉱の訓練所

 

 

 

昭和17年---高松炭鉱・第二鉱の高尾訓練所(前列-賄婦たち)-1942年

私の生まれた高尾区社宅には、独身者の寮があったとは聞いていたが、訓練所の所在は初めてである
戦前の平屋社宅は特定できるので、北側のボタ山近くの緑町か、東側の高尾幼児園の裏側が考えられる
社宅の外観から、高尾幼児園の裏の3棟と推定するが・・・未確認です
( 別の資料では、高尾以外の説明があり、未だに未確認です )

 

 

昭和18年---中央訓練道場の職員が応召されて行く時の記念撮影-1943年           昭和19年---中央訓練道場-1944年--「高等科前段終了記念一期生」

朝鮮人訓練生は、まず中央訓練道場で基礎の訓練をして、その後各鉱の訓練所に入寮したようです 

中央訓練道場は、球場傍の古賀訓練所と思われるが・・・未確認です

 

 

高松炭鉱・第三鉱の訓練所

 

 

  

 昭和20年---高松炭鉱・第三鉱の浅川訓練所-1945年

 

 

  

昭和19年---高松炭鉱・第三鉱の浅川訓練所(17名)-1944年                   昭和19年---高松炭鉱・第三鉱の浅川訓練所(22名)-1944年

 

 

昭和19年---高松炭鉱・第三鉱の浅川訓練所(13+1名)-1944年                  昭和20年---高松炭鉱・第三鉱の浅川訓練所の労務係-1945年

                                                                    (前列右は、朝鮮人隊長と説明あり)

 

 

 

貝嶋炭鉱の訓練所

 

 

撮影年不明---貝嶋炭鉱の訓練所風景と思われる

坑内作業を中心に、炭鉱の仕組みや作業道具、坑内道具、坑内用語等について教育した

 

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昭和14年の高松炭鉱 」・「 昭和15年の高松炭鉱


日炭高松炭鉱の記憶 

水巻町全図−1 

水巻町全図−2 

水巻町全図−3 

昭和30年代の日炭高松炭鉱


更新日--'07/12/02

 

 

 

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