昭和15年の高松炭鉱

( 写真・糸山様提供 )

日産化学工業株式会社・遠賀鉱業所・高松炭鉱 時代の写真と資料より

興梠友兼・鮎川義介・武道場等の写真

( アジア歴史資料センターの資料等 )

会社名の変遷---(S.9-7)日本炭礦(株)(S.12-2)日本化学工業(株)(S.12-12)日産化学工業(株)(S.18-4)日本鉱業(株)(S.20-7)日本炭礦(株)



昭和15年の幹部会

  

昭和15年---日産化学工業・遠賀鉱業所・高松炭鉱の幹部達  (杁クラブ・玄関前にて撮影)

 

( 杁クラブ---昭和12年頃に旧・三好邸を移築して建設、13年に火事で東側が焼失、14年に本館・洋風二階建が再建される )  

 

 

 

最前列・中央左に興梠友兼所長(常務)、右に鮎川義介--満州重工業開発(満業)・総裁--(日産化学工業・取締役)

 

鮎川義介---昭和 3年に日本産業(株)を設立し、新興財閥・日産コンツェルンを形成する---12年12月に満業に改組し、17年の秋まで総裁を務める
                   
        (S.17-12/27)相談役に退く---(S.16〜)満州国・経済顧問、(S.18-11/17〜)内閣顧問---(S.22-10/7)公職追放
        後任の総裁・高碕達之助---(S.15-6/27〜)満業理事⇒(S.16-2/27〜)副総裁⇒(S.17-12/27〜)総裁就任
 

満州重工業開発(満業)---日本産業(株)は、(S.12-11/24)満州国新京に移転・登記し、(12/01)治外法権の撤廃、満鉄附属地の行政権移譲が実施される
         (12/01)満州国法人・日本産業会社となり、(12/27)満州重工業開発に改組する
                      
           (S.13-3/2)南満州鉄道(満鉄)より、「昭和製鋼所・満州炭鉱・満州採金・同和自動車・満州軽金属」の株式を取得する
               (譲渡株券の評価額・1億747万5千6百円--昭和製鋼所・7,700万円--満州炭鉱・1,681万7千6百円)
                           (満州採金・520万8千円--同和自動車・145万円--満州軽金属・700万円)
            (S.16)鮎川義介は新に満州投資証券を設立し、日本国内企業の株式を満業の所有から分離する

  

 

 

 

昭和15年頃---遠賀鉱業所・高松炭鉱の幹部達  (杁クラブ・別館-西側の離れと思われる)

(係長以上と思われるが詳細は不明、右から2人目--吉田法晴)  

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興梠友兼と武道場

興梠友兼所長の略歴は、「鉱区と炭層」に掲載しています

 

 

 昭和14年--50歳

昭和44年--80歳 

 

 

 

昭和15年---高松炭鉱・第一鉱の弓道場にて 

興梠友兼所長は、大正5年の杵島炭鉱での実習中から大弓を始める---『忘れ得ぬ其日』より

 

 

高松炭鉱・第一鉱の弓道場は、一鉱山ノ神の北側(吉田グランドの北西)にありました

高松炭鉱の柔道部・剣道部・弓道部等は、大会で好成績を挙げたようです---上は、昭和15年の優勝記念です 

 

 

昭和14年---高松炭鉱の第二鉱・武道場の開設記念

この武道場は、第二高松会館の北側の小山にあり、昭和35年頃には古賀幼児園になりました 

 

 

昭和32年に北西から見た---給水タンク・二鉱武道場・古賀駐在所・第二高松会館(映画館)・古賀クラブ・古賀区社宅街 

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高松炭鉱・第一鉱

 

昭和15年---高松炭鉱・第一鉱の事務所前 

この第一鉱事務所は、旧・三好鉱業の高松事務所跡と思われます 

 

 

昭和40年頃---日炭高松炭鉱の一鉱事務所 

 

 

昭和15年---高松炭鉱・第一鉱の坑口---本坑か??、新坑か??は不明です

 

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山口勲氏の写真集「ボタ山のあるぼくの町」に、上と同じ坑口の写真がありました---第一鉱の新坑のようです (後に通気坑として使用)
(下の新聞記事では、昭和6年5月に開鑿着手して、10月に着炭のようです) 

 

日炭高松炭鉱 (日本炭礦株式会社)のユニホーム姿---(Yoshi Yonezawa氏・提供)
撮影年度は不明ですが、球技か陸上競技の選手と思われます 

 


 

 

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新聞記事に見る---昭和16年の日産化学工業(株)・遠賀鉱業所・高松炭鉱 


(日本工業新聞-1941.6.11(昭和16)より抜粋)


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其の沿革を見ると、この炭鉱は大正末期に三好徳松氏が下層採掘の目的で開坑したもので、
当時の本坑は現在第一高松炭鉱がそれである、即ち大正十四年四月、傾斜二十度の炭石斜坑開鑿に着手し、
同十五年十二月、坑口より八百米のところで三ヘダ三尺層に着炭、
更に昭和二年七月、五百米進んで四ヘダ五尺層に着炭した、
当時の新坑即ち現在の第二高松坑は、昭和六年五月、傾斜二十五度の逆磐斜坑開鑿に着手、
同年十月、四百五十米の深度で四ヘダ五尺層に着炭して現在に至っている

現在採掘しているものは層厚三尺二寸の三ヘダ三尺層、同じく六尺三寸の四ヘダ五尺層、
炭質は瀝青炭、非粘結性で硫黄分少く燃焼効率の大なる点が特長で
ボイラー用並に一般工業用炭としての優秀炭である

此の炭鉱を日本産業株式会社が買収し、それに高尾、梅ノ木、糟屋炭鉱を加えて
日本炭鉱株式会社を創立したのが昭和九年七月、
そして事変勃発の歳−昭和十二年十二月に現在の社名に改称されたものだ
其の間年産百二十万瓲を目標に坑内外の設備の整備を進め、昭和十二年四月に其の第一期工事を完成、
昨年十月更に第三高松を開坑し、本年七月には着炭の予定であるが、更に年産三百万瓲計画を樹て、
深度二千八百八十米の地点に於て、第一第二高松坑と連絡する設計の下に
二島斜坑開鑿に着手し、現在既に一千五百米を掘進している

昭和十二年四月、第一期工事の完成に依って、毎時百七十瓲処理の能力を持つ選炭機械設備と
毎時六百瓲の石炭を搬送する、第一斜坑延長五百米、幅四十二吋のベルトコンベアが出来上った、
第二期工事は、同年十二月着手、昭和十三年六月、毎時三百四十瓲能力の大選炭機と
第一斜のものと同能力の、延長八百米の坑内中央卸のベルトコンベアが完成、
一日一万瓲出炭に備える現在の機械設備の整備が略々成ったのである、
二島坑も目下、坑内ベルトコンベア、選炭機、積込設備、発電所の建設工事を進めつつあるが、
この工事の完成は、昭和十九年度の予定である
高松炭鉱の概要は以上の如くであるが

第二日目いよいよ目的地筑豊炭田に第一歩を印する、今回中央表彰十二炭鉱中の一つ
東洋一を誇る機械設備の整備されている、モダン炭鉱として有名な、日産化学工業株式会社高松炭砿を訪問、
そこで現地第一声を□く、先ず予備知識として高松炭砿の概略を紹介しよう
高松炭砿は、資本金一億二千四百万円の日産化学工業株式会社の福岡県遠賀郡水巻村、
鋼区面積七、一三五千坪を擁する遠賀鉱業所で、第一、二、三高松炭砿と二島炭砿の四坑の採掘を進めつつある、
本鉱区地質は第三紀層、砂炭質岩の互層から成り、筑豊炭田・遠賀炭層群の全炭層を包含している、
炭層は上層群、臭石五尺層、鉄石層、本石三尺層、本石下層、三ヘダ上石三ヘダ中石、三ヘダ下石である、
下層群は上ツル、三ヘダ前、三ヘダ三尺、四ヘダ前、四ヘダ五尺

筆者は第二高松炭砿で斜坑四千尺を下り、一切羽に於ける労働状態を観た、
真暗な地下の、しかも漸く立ち得る三尺置き位の間隔で単に坑木が地盤を支えているだけのところで、
一列に並び炭塵と汗にまみれ乍ら淡いヘッドランプの光を頼りに、
懸命にチェーンコンベアのトラフという鉄樋の中に石炭を投入している採炭夫、
坑木を運び、ハンマーを持ち坑道維持に汗ダクとなっている仕繰夫、
間断なくトラフから落ちてくる石炭をトロ積する運搬夫等四、五十名の労働状態を詳細に観ることが出来た

この炭砿の就業時間は作業の種類に依って違うが、採炭と掘進は一日三交替の現場交替が原則
入坑は一番方午前六時、二番方午後二時、三番方午後十時である、仕繰夫も同様三交替、
就業時間も略々採炭、掘進夫と同様賃金は採炭、掘進、仕繰りも大体働き高に依り
即ち一切羽に於ける出炭を瓲当り幾らという値段で会社側が買い上げる形式で支払う、
大体一日平均三円五十銭−五円位、休日は毎日曜と祭日及お盆、正月の三日間ずつである

労務者に対する炭鉱の福利施設も、一般的に漸次充実されつつあることは事実だ、高松炭鉱の状況を観ると、
二階建文化住宅式社宅五千余戸、家族のある者は六畳と三畳或は六畳と四畳半の二室で設備は完備し、
家賃なく僅に一ケ月畳一枚につき四銭の損料、電燈一燈につき十五銭を支払えば済むようになっている、
独身者合宿所、三千人を収容し得るという大集会場、芝居、活動写真などを演ずる二つの興道会館が建てられ、
武道場、総合グラウンドも建設中である

教育方面も男女青年学校、坑内技能者養成所、修業年限三ケ年の高松鉱業学校等があり
七千従業員の子弟の教育にも努めている、
其他共済施設、体育施設に細心の注意を払い整備の努められ、
地上に於ける鉱夫の生活は、工場労働者に比較して決してそれ程遜色あるものとは見受けられない、
最近に於ては殊に入坑奨励金、増産奨励金なども給与され、実質的に賃金は漸次昂められてゆく傾向にある

日産高松炭鉱は、其の整備した設備と沿革に就て既に一部分述べて置いたが尚お少し補足して置き度い、
現在高松炭鉱で稼行している炭層は、三ヘダ三尺層と四ヘダ五尺層であることは前回述べたが、
今後採掘に着手するものは、臭石五尺層と本石三尺層である、
採炭法は第一高松坑は、両層とも沿層の卸坑道を掘進し、八〇−一二〇米毎に左右両片磐を設け
前進後退式長壁法を採用している
従来発破採炭も行っていたが最近は地圧の利用に成功し、コールピックを使用し発破採炭は中止している、
払跡は所謂ボタで帯状乾式充填を行っている、

第二高松は、四本の逆磐斜坑を開鑿し、大部分後退式一部前進式長壁法に依る、
払面は大体一〇〇−一三〇米を標準としているが、払跡は第一同様ボタで充填している
坑内搬送設備は殊に整備し、切羽に十五馬力のチェーンコンベアを設備し、
自働的に二瓲半積の大型炭車に積込み、或る場所迄数百馬力のヴインチで捲揚げ、
炭車一車ずつをドラムに入れ一回転せしめる装置で、坑内中央卸ベルトコンベアに移し、
坑外に搬出するという仕組で、一日数千瓲の搬出能力の有っている、
ベルトコンベアの建設費は、一米当り一千五百円との説明であるから、
第一斜坑五百米、中央八百米、合計一千三百米の第二高松炭鉱のコンベア建設費は約二百万円近いものとなり、
其の能力から云っても、今後の増産に対しても尚お相当の余力を持っている、

今後の計画は、第二水平層以下は捲上げ、それ以上はこのベルトコンベアで搬出することになっている、
現在この炭鉱産炭の約三分の二は若松、残り三分の一が戸畑に送られているが、
折尾駅までは自社専用列車を使用し、最も配車が順調に行った時は、一日に四七〇輛を出した記録を持っている
一乃至三月増産期間中の成績は、計画を突破した増産率は一〇・九%となっているが、
前年度実績比は約二二%の増産となっている、本年七月予定の如く新坑の二島坑が着炭すれば
相当の増産余力を持ち、予定計画の年産〇〇瓲出炭も近く実現する

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『 神戸大学・新聞記事文庫-石炭(11-049) 』 


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昭和14年の高松炭鉱」・「昭和17年の高松炭鉱


日炭高松炭鉱の記憶 

水巻町全図−1 

水巻町全図−2 

水巻町全図−3 

昭和30年代の日炭高松炭鉱


更新日--'06/08/24

 

 

 

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